今月の一冊📖
癒しの豆スープ / 吉本ばなな(さきちゃんたちの夜 収録作)
吉本ばなな『さきちゃんたちの夜』(新潮文庫)
小学生の頃、下校途中にお菓子をくれるおばあちゃんがいて、その家の前を通るのをいつも楽しみにしていた。
縁側におばあちゃんがいれば、お菓子をもらえる。目が合うと、おいでおいでと手招きをし、缶のなかから飴玉やクッキーをつまんで、チラシにくるんで渡してくれた。
何をもらっても嬉しかったのに、そのうち、かりんとうやあんこ玉といったおばあちゃんじみたお菓子をひそかに「ハズレ」と呼ぶようになった。おばあちゃんの姿自体が縁側に見えないと、家の前を通り過ぎてまた戻ってみたり、なんてことまでするようになっていった。
母は私がものをもらって帰ってくることを良く思っておらず、最初に見つかったときは、私の手を引きその家に謝りに行ったほどだった。お礼というより、あれは謝りに行ったという記憶として残っている。それより強く覚えているのは、母よりも、その家の主のほうが母にたくさん謝っていたこと。そして、その日以降もおばあちゃんは変わらずお菓子をくれたのに、母はもうなにも言わなくなったことだった。
そんなことをふと思い出したのは、よしもとばなな著「癒しの豆スープ」を読んだからだ。
「癒しの豆スープ」は、5人の“さきちゃん”の物語を描く『さきちゃんたちの夜』に収録される短編小説。
両親の離婚をきっかけに、母とともに父方の祖父母の家で暮らすようになったさきちゃんは、週4日、図書館でアルバイトをしながら、週末になると祖父母を手伝い、近所の人に無料で豆スープを配っていた。
月曜日に材料を買ってきて、仕込みをして、火曜日から金曜日まで煮込み続けて、土日に配るというその豆スープは、午前中でその日の分がなくなってしまうほどに好評で、営んでいたたばこ屋を畳んでもなお「無料」のスタンスを崩さぬまま、祖父母の晩年まで続けられた。
しかし祖父母が亡くなると、同時に町内からは“豆スープが無料で飲める立寄どころ”も消えてなくなり、人々はその失望を残された家族にぶつけ出す。「な〜んだ、あんたはやっぱりなにもくれる気がないのか」という顔をして。やがて母は思い立ち、別れた夫を誘って豆スープ作りをはじめるのだが……。
本作には、スープをめぐる人間模様を軸として、祖父母の味を復活するためふたたび集結した家族の姿が描かれる。
銀座でイタリア料理店を営み、金や利害や愛憎が絡んだ人生を今も生きる父と、もと銀座のホステスで、結婚していた頃は淋しさを遊ぶことで紛らわせていた母。そして、裕福だけど孤独で窮屈だった幼少期を経て、つましくも憩いを感じられる暮らしを得たさきちゃんと。
それぞれが、祖父母のスープ越しに捉える「人間」の姿、そして「無料」という取引に潜むものを語る言葉が印象的だ。
──無料っていうのは、ほんとうはとても残酷なことなんじゃないのか?
結局はそれを相手が背負うことになるだろう。
──無料のスープに癒されようとする奴らなんか、いやだ。
──豆スープがほしい、おいしい、嬉しい、ありがとう、よかったらこれ受けとって、
そこまではみんな思い至る。でも、祖母の手がまるでぼろぞうきんみたいに
がさがさになって、血が出てばんそうこうをしているのに、それには気づかない。
「無料」でなにかが差し出され、それを受け取る者があるときに垣間見える、人間のずるさや鈍感さ、入り交じる善意と悪意、感謝を飲み込む欲望……。
〈たかがスープなのに、神様に試されている。〉という言葉は時空を超えて、ランドセルを背負っていた当時の私の胸を刺し、そのさもしさにいまさらながら赤面した。
神様の化身は、案外身近にいる。
さて。料理人の父の腕を持ってしてもなかなかその味を再現できなかったという祖父母の豆スープであるが、作り方は至ってシンプル。
〈祖父が自転車でオオゼキに買いに行った鶏肉とレンズ豆とじゃがいもとにんじんとトマトとにんにくを基本にして季節の旬の野菜が入る。材料を軽く炒めてから水を入れ、アクを取りながら祖母が延々煮るだけ〉というではないか。ただ肝心なのは、他人の感情や行動がどう自分に向けられようと、自分をとりまく関係性が変わろうとも、動じない、という姿勢にあるらしい。
さいわいにしてオオゼキも近所にあることだし、作ってみようか。
その味は、ひとたび舌が反応すれば世界が輝いて見えるほどにおいしくて、
人間も、豆スープも、やめられなくなってしまうという。
(文・文筆家 木村綾子)
次回の「続 おはなし、スープ」は、
2024年5月を予定しております。お楽しみに♪
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