真夏の夜のビーフシチュー、冷たいワインと温かい心で。
突然だけれども、女の子からの「突然の誘い」というのはなかなか魅惑的である。
それはその誘いが無茶であればあるほど、かけ値も上がり、愉しさも増す。
例えば朝の8時に起こされ「浜松で鰻が食べたい」とか、
「バスキン・ロビンスのアイス全部買ってきて」とか、
深夜に「首都高速でビリー・アイリッシュ聴きたい」とか。
「突然何言い出すの?」と驚きながらも、冗談と本気の間を誘惑と遊び心が行き交う。
それが無垢な心から発せられたオーダーなのか、それともいわゆる”駆け引き”的なプレイなのか、
胸の内はわからないけれども。
"完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。”
という名文から始まる村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」に登場する彼女(名前はない)も
また、「突然の誘い」の上級者だ。
物語は主人公の大学生の僕(名前ならない)が、夏の帰省の港街で過ごす18日間の話。
行きつけのバーで友人<鼠>と語り明かし、女の子と出会い、恋愛のようなものの予感と、
二十歳のころにしか訪れることのない焦燥感が織りなす、
著者の"青春三部作”と呼ばれる最初の作品。
ジェイズ・バーのトイレで酔いつぶれている彼女を僕(主人公)が介抱するところから出会い、
ありがちな誤解と、小さな偶然を経て、二人は再びバーでお酒を飲む。
カクテルのグラスの氷が少しずつ溶けていくように、お互いの心も打ち解けていく。
そんな時を過ごした次の日に、僕のところへ彼女から電話がかかってくる。
彼女:ん・・・、ビーフ・シチューは好き?
僕 :ああ
彼女:作ったんだけど、私一人じゃ食べきるのに一週間はかかるわ。食べに来ない。
僕 :悪くないな。
彼女:オーケー、1時間で来て。もし遅れたら全部ゴミ箱に放り込んじゃうわよ。わかった?
僕:ねえ・・・・・。
彼女:待つのが嫌いなのよ。それだけ。
彼女はそう言うと。僕が口を開くのも待たずに電話を切った。
うむ。なかなか唐突で乱暴(ドS)なお誘いである。
昨日会ったばかりなのに、今日は家にシチューのお誘い。
でもどうだろう、まだ数回しか会ってない女の子から手料理のご招待。貴方ならどうする。
結局、僕はシャワーを浴びて髭を剃り、夕陽を見ながら車を走らせ、
途中でちゃんと手土産のワインまで買い、彼女の家へ行く。
そこで二人はバーで過ごした時間とは異なる親密な時を過ごす。
真夏の夜に「冷たいワインと暖かい心」という謎の乾杯用語で、
ロールパンとサラダとビーフ・シチューを食べ、M.J.Qやマーヴィン・ゲイのレコードを聴きながら
言葉を交わし、潮風を感じながらお互いを知り合うのだ。素敵じゃないか。
完璧なデートなどといったものは存在しない。完璧なビーフシチューが存在しないようにね。
何もわざわざ真夏にシチューじゃなくてもいいし、「あと1時間で来て」って
誘いかたも結構リスクあるよね。なんて色んな意見も出そうだけど、
つまり何が言いたいかって言うと料理も恋愛も完璧さを求めるよりは、素敵な偶然や
美しい不完全さのようなものが僕としては心惹かれる。
そして主人公の僕と同様に、この僕も「1時間で来て」と女の子に言われたら
「50分で行くよ」なんてキザなことを言って、顔がニヤけないように
平静を保ちながらワインを買いに行くだろう。
そして、この小説を読んでからの僕は、“ビーフシチューと白ワイン”という
一見チグハグな組み合わせがやめられない。それでもいいじゃないか。
やりたいんだから。そして乾杯の時にはこれも必ずやらなくちゃ。
グラスを持って恥じらいなく言うのだ「冷たいワインと温かい心」、チン。
(文・SNOW SHOVELING店主 中村秀一)